恵里(GIL)が残した心のメッセージ  ◆過去ログ◆   トップページへ


2008年1月5日保存
 私は「Breeze and You」を求めて、生まれて初めてCDを買いにヤマハにいきました。でもこの時は、本当は気に入ったフュージョンの曲の、どれでも良かったんです。 たとえば、その中にはカシオペアもあった、スパイロ・ジャイラもあった。ボブ・ジェームスもあった。けれども、一番最初に見つけたのが「スクェア」で、私はとりあえず 、一番最初に見つけたそれから聞いてみようと思って買いかえりました。そのアルバムが、ファンの間でも名高い名作「TRUTH」だったんです。「へぇ、あのF1の音楽って、 こういうバンド組んだ人たちがやってたんだ」それが私の第一印象です。私は、こういうBGMみたいな「低俗」な音楽なんかを、「バンド」を組んで本職にしている人がいる事を知らなかったこれが中2ですよ。そして、聞いた。私はあの時の興奮を今でも忘れません。狂ったように何度も聞きました。50回は聞いたでしょう。「Breeze and You」だけじゃない、 「Truth」も「Grand Prix」も、すべてが新しかった。ピアノがいる、私と同じピアノが。でも、全く違う。同じ楽器なのにぜんぜん違う……。聴いて聴いて、 聴きまくって、飽きるぐらい聴きました(ホントに)。10年前、多くのスクェアファンがそうなった(実話)ように、「飽きてジャケットが見たくなくなるくらい」聴いたんです。 そして、その時から私の「スクェア中毒」が始まったんです。当時、いじめられていて友達もいなかった私には、スクェアが世界のすべてだったんです。 「他にはどんなアルバムがあるんだろう、どんなグループなんだろう」そう思って買いつづけるうちに、スクェアのアルバムは25枚になっていました。全部実費です 。私の小遣いは、すべてCDに消えていたし、私はそれで満足でした

2007年6月25日保存
 ある時父が買ってきたパソコンから、同時発音数6音(これじゃ、サックス5重奏とベース一本の曲しかできない。それぐらい情けない環境)で、しかも音色は、 今私が持ってるのとは比べ物にならない「ファミコン」並みの音色で、そういう情けない状態で初めて、DTMに触れました初対面にしては最低な環境、 こんな状態で「はいやってください」なんていわれたら嫌になってしまう人のほうが多いと思われるような状態で、私はハマったのです(……)。買い与えられたデータ集 (もちろん、同時発音数最大32音とかの曲、当時の最新鋭のデータ)をたった6音で聴く(もちろん、でない音のほうが多いので曲にならない)ために、何度も何度も繰り返し聴いて、 「おかず」のパートは極力ミュートして、ベースラインと、コードと、メロディーと、リズムパート(ここは6音には含まれていない)を残して(苦労したなぁ)、ようやく全編何とか聴き終わって(……)。 こうしていくうちに、私は曲を構成する最低要素「ベース・コード・リズム・メロ」を学んでいたのです。そして、そのデータ集にはいくつかの「フュージョン」のデータも含まれていました。 私はそれが特に好きでした

2007年2月23日保存
 私が初めて曲を作ったのは幼稚園の時です。自分でも覚えがありますが、その曲は「楽しい幼稚園」という曲でした(そのままやな)。幼稚園の時曲を作ったというとみんな 「天才―っ」とか言いますが、実際はそうではないと思います。私はその初めての「作曲」の時、自分がどう思いながら作ったか覚えています。まず、習いたての「シンコペーション」の リズムを使ってやろうと思いました。そして「思い出」という曲(いーつのーことーだかー、おもいだしてごーらん、のあの曲)を少しパクってやろう(というか、あの雰囲気で書こう)と思っていました。 曲の形式は童謡風(当時の私の音楽世界)、楽譜は右手も左手もト音記号(ただの間違えです。ヘ音記号を知らなかったらしい)で、普通は4小節区切りですが、曲を考えるのがめんどくさかった (……)らしく、なぜかテーマは3小節区切り、最後は手抜きです(……)。そしてその曲以来、私は中学2年生になるまで曲を作った事がありませんでした。

2006年11月25日保存
 しばらくしてもうワンランク上の音源(20音ぐらいは出る。ドラムセットもあり)に変えた時には、30曲あまりをこなしていた自分(川上享都、GIL)はもはや「6人目のT-SQUARE」としての オリジナリティを持つ事を自覚してました(偉そうですが、自覚というのは進歩の第一歩です)。そこで私は(MDを手に入れた事もあって)、だんだん6人目のスクェアという事以上に、一人で 「5人のメンバー」を演じるようになったのです。その頃から、スクェアの良いところ、悪いところが理解できるようになり、妄信的な音楽から脱皮したような気がします。私は自分が作った曲で 「ミニアルバム」を作るべく、計画的な曲作りを始めました。つまり、スクェアの一つのアルバムの中の曲を系統別に分け、どのような曲が何番に来ているのか、そんな研究を始めたわけです。 そして自分で「よし、次はラスト用のちょっとダーク系の曲だ」とかそういう風にやるわけです。こうする事で、自分に「いろいろな曲作りのつぼ」が身についたし、人に聞いてもらうための「セールス」 のことも考えるようになったし、何よりも、自分の頭の中のイメージを曲にするというトレーニングがなされていた。自分に「ノルマ」を課すわけだから、いつも「好き勝手」に曲作りができる わけじゃない。でも、作った曲は満足いくものにしなければいけない。思えば、これはずいぶんいい練習だったと思います。

2006年8月20日保存
 3枚目のアルバムを手にしていた時、私は「T-SQUAREのメンバーになってみたい」と思っていました。安藤が、和泉が、須藤が則竹が本田が、あくまで「スクェア」という色を保ちつつ、 「個人」としてスクェアのパーツになり、それらすべてが「スクェア」を構成しているという状態に惚れ込んでいたのです。スクェア自体も、そこの部分を強調するかのように、作曲者を大きく載せている……。 何が言いたいかというと、私は中学生時代いじめられていました。つまり、みんなの中には入れなかったのです。こちらもいろいろあったあげく強がって、「一人でいいんだ」的に弁当も一人で食べました。 遠足は休みました。そういう時一方で、「みんなでやる」集団がある……つまり私は、自分の中で自分を「スクェア」の6人目のメンバーにしていたのです。「川上享都」というなのメンバーが、 アルバムに1曲か2曲、名を連ねてくる……そんな幻想を持っていたのです。その時から、私は「フュージョンのプレイヤーになりたい」という、人生初めての「夢」を持ちました。そして、 「曲を作ってそれを聴いてもらって、もしかしたらいるかもしれない自分のような人間に、生きていて良かったと思ってもらえるような音楽を届けたい」というわけの分からん理念を持ってしまった わけです。よって私は今でも、単純な「ノリ重視」の曲にいまいち味を感じる事ができないわけです。

2006年5月27日保存
 野良主義の自分ですからMizaloというPCと組んだことがある方は恐らくかなりの数になるだろうと思います。今はもう動かないあのPCがまだ人気の全く無いロランベリーで私に言った一言を未だに 良く覚えているわけで、それは多分FF11(Final Fantasy XI)を辞めた後も忘れはしないわけで、私はそれらの思い出の一欠片ずつに忠誠を誓うわけです。娯楽や暇つぶしといった物に本来興味はありません。 財産や誇り、名誉や名声といったものにも興味はありません。自分らしく生きる事が他に生きる人達の糧になる事が目的であって、かつて誰かが私のためにしてくれたように、自分もそうやって生きるだけ なのです。
 今でも思い出しますよ、ロランベリーを歩くと。初めて入ったロランのBGMを聞きながら「いい音楽だ」と話し掛けてくれたあのPCはもういないけれど、二人で雨の中をゴブを狩りながら歩いた時間は 帰ってこないけれど、自分に宝物をくれた人間がそこに、…それさえあれば私は生きておれるのです。